「教と育」(2014年1月20日発行)

先日塾の先生達の勉強会で「14歳からの哲学」(池田晶子著)が取り上げられました。その中で「自分とは」「考えるとは」「思うとは」「言葉とは」「生きるとは」「死とは」・・・。様々な言葉を考えさせられました。言葉をもっと真摯に磨き突き詰めろと。

さて、そんな勉強会の後で近頃の子育てを考えてみました。以前にもこの欄で触れたことがあるのですが、保護者のお子さんへの関わり方についてです。時々職場の事務処理と同じように「ここにこういう問題があるからこの子にはこうさせよう、こういう対処方法をとろう」という解決策をお子さんにとられる方がいらっしゃいます。ある教科の成績が伸びないのはなぜか。そのためには子どもにどんな勉強をさせよう。勉強に対する意欲が足りないのでその解決方法としてもっとたくさんの課題を与えて強制的にでもやらせて成績を上げよう・・。

如何でしょうか。よくありがちな光景ではないでしょうか。確かに仕事も一生懸命に取り組んでいる保護者のあり方としては無理もないことです。しかし本当にこれで良いのでしょうか。大事なことは子ども本人と十分向き合うことではないでしょうか。「長年見ているからうちの子がどんな子かは十分よく知っている」と思っていらっしゃるかもしれません。でも子ども達は絶えず変化し成長しています。ご両親や家族の前では見えない一面もあります。問題があったらまずは本人と話し合う。その話し合いの場がもてなければ(本人が希望しなかったり、何を話して良いのか分からなかったりする場合)その状況自体が問題です。その状況を解決するために保護者がまず本人の思いをじっくり聞いてみる。あるいはその方向で働きかける。そんなことがポイントになります。

義務教育制度が普及している現代では、親が子どもを「育てる」ということはあっても、多くの場合親が子どもを「教える」とは言わないのは当然です。親が子どもに対して行っていることは多くの場合「教える」こと以上に「育てる」ことです。「育てる」は「育(はぐく)む」ことです。親鳥がひなを羽で包んで育てる、つまり羽(は)含(くく)むから来ている言葉です。「育む」は育まれるものが本来持っているもの、本来あるものを大事に守ってその成長・発展を助けるものです。主体は育てられる本人であるはずです。本人を軽視して育てる、育むことはありません。「教える」のは教わるものが本来持っていない知識や技能を外から注入していくもの。学校で習っている知識や技能は「教える」ものです。本人がどういう状況にあるかは別として本人に伝え働きかけ、知識を増やし技能を身につけさせることが「教える」ことです。でもこれとて「教える」から「学ぶ」へと教育の主体は教わる本人に移ってきています。たとえ教えるにしても「学ぶ」本人の意志を無視して「教える」ことは成り立たなくなりました。

近頃の保護者の方の傾向を見ていると子どもを育てるのではなく、子どもに教え込んでいるのではないかと思うことがあります。もし育てるつもりならばまずはお子さんと向き合ってみませんか。どうして日頃の生活に意欲的に取り組まないのか。どうしてそう親に反抗的なのか。お子さんと向き合ってじっくり話を聞こうという場がもてるかどうかは、日頃のお子さんとの接し方によるのではないでしょうか。問題が起きたときにお子さん本人と向き合えるかどうか、言ってみれば子育てが本当に必要とされているその時に、その有効な解決策が打ち出せるかどうかは保護者の方の日頃の子どもとの関わり方如何、といっても過言ではありません。

先の勉強会で発表者の先生が「池田さんはご自分のことを哲学者とは決して言わなかった。私が敢えて彼女を勝手に称するのであれば池田さんを哲学家と呼びたい」とおっしゃっていた言葉が印象的でした。池田さんがどんな素晴らしいことを語るかではなく、日頃どう生きていたかを評価されたからに他なりません。この1年を振り返ってみると、少なくとも今年の青藍学院の受験生の保護者の皆様は日頃のあり方で立派にその任務を果たして下さいました。ここに感謝と御礼を申し上げます。

(代表 林 政夫)