(2009年1月21日発行「幸せのレベル」【頑張れ受験生!他】)
「幸せのレベル」 代表 林 政夫
先日用事があって、電車に乗りました。朝のラッシュが一段落しかけた頃とは言え、立っていても新聞も読めないくらいの混み具合でした。そんな中私の隣に立った中年の女性と少し髪の毛が白くなっている男性の会話が聞こえてきました。
女性「最近は超高齢者って言うみたいよ。私の職場で関わっているお年寄りで85才以上の人はそう呼んでいるの。」
男性「へええ、そうなんだ。」
女性「そしたらさ、その85才以上のお年寄りになると朝起きて目が覚めただけで幸せを感じるんだって。」
男性「へええ。」
女性「朝起きて『今日も生きていた』『元気に目が覚めた』って、ものすごく幸せを感じるんだって。」
男性「それは気の毒だねえ」
女性「そうなの、幸せのレベルがずっと低くなっているのよ」
男性「困ったモンだね。」
と言うものでした。これを聞いて「えっ!?」と思ったのは私だけではないと思います。幸せにレベルの違いがあるとは思いません。もしあるとしてもこのお話に出てくるご老人は最高レベルの幸せをつかんでいると言えるのではないでしょうか。
朝、目が覚めただけで幸せを感じられる。毎日が幸せな朝を迎えることが出来る。毎日そんな思いで家族に出会い挨拶を交わし、そんな思いで外に出て他の誰かと関わって行けたら。毎日が、そして人生が楽しい幸せなものになるのではないでしょうか。幸せを手に入れるのにお金が必要なわけではない。何かの努力がいるわけではない。ただただ生きているというそれだけで幸せに感じられると言うこと。実に有り難いことではないでしょうか。
今の季節なら木枯らしの中温かい日差しが差し込んでくる窓辺にたたずんでいるだけで幸せを感じることが出来るはず。町をゆく人々が笑顔で通り過ぎるのを見ても、幼子がよちよち歩いているのを見ても、木々に小鳥がさえずっているのを聞いても、あらゆる事に幸せを感じることが出来るのではないでしょうか。 次に掲げる詩は若き医師がガンの発病によって自分の限られた命を知ったときに、
家族へ残した手記から抜粋したものです。
「あたりまえ」 井村 和清 作
こんなすばらしいことを、
みんはみんなはなぜよろこばないのでしょう。
あたりまであることを。
お父さんがいる、お母さんがいる。
手が二本あって、足が二本ある。
行きたいところへ自分で歩いて行ける。
手を伸ばせばなんでもとれる。
音が聞こえて声がでる。
こんなしあわせはあるでしょうか。
しかし、だれもそれをよろこばない。
あたりまえだ、と笑ってすます。
食事が食べられる。
夜になるとちゃんと眠れ、
そして、また、朝がくる。
空気を胸いっぱいにすえる。
笑える、泣ける、叫ぶこともできる。
走り回れる、
みんなあたりまえのこと。
こんなすばらしいことを、
みんなは決してよろこばない。
そのありがたさを知っているのは、
それをなくした人たちだけ。
なぜでしょう。あたりまえ。
「飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ」より
もうすぐ受験が始まります。今年も受験生に対する何気ないお父さんの声かけ、お母さんの手作りのお弁当、家族の温かい眼差し、などなど。日常の当たり前に見えるような行為が、くじけそうになる心をどんなに支えてくれたことか。受験生達はそんな当たり前の凄さ、大切さを知っているはず。ここまで支えて頂いたことに感謝をいだきながら受験生諸君、全力投球。