(2008年9月23日発行「なぜ勉強するのか」【合宿を終えて、生徒達の声、他】)
「夢と志」
「あなたの夢はなんですか?」と問われたときにあなたはどう応えますか。大リーガーのイチロー選手は小学生達の前に立つといつも「夢」を持つことの大切さを語っています。数年前に参加したある勉強会では、「夢」を沢山書いて下さい、10でも20でもいいから何でも書いて下さい、という。そこでは「車を持ちたい」、「家を持ちたい」、「大きなテレビが欲しい」、「~さんと結婚したい」、「大金持ちになって~な生活をしてみたい」まで、夢と言うよりまさに欲望という方が良いようなものまで「夢」と言う言葉でくくられます。
さて、このように「夢」という言葉に込められた意味は様々です。ただ本来「夢」とは自分の将来の有り様を語っているものではないかと思います。「~な仕事をしたい」「~のような人になりたい」「~な生き方をしたい」など。ここにはその人しかできないような生き方の個性があるように思われます。誰もが一様にほしがるような物や生活を望むのは「夢」という概念からは外した方が良いように思うのです。夢を語ることによってその人の人となりが出るようなもの、それが夢ではないかと。その意味では夢を探すことは自分探しでもあるわけです。自分はどんなことをやっているときが一番活き活きしているのだろうか。自分はどういう生き方をしていたら自分らしいと言うのだろうか。そんなことを「夢」という言葉に託して表現しているのではないでしょうか。イチロー選手がいう「夢」を持てとはまさにそんな自分探しをしてほしいと言うことではないかと思います。
ところで、「夢」という言葉はいつ頃から今のような意味になってきたのでしょうか。日本では本来「夢」という言葉はどう使われてきたのでしょうか。平家物語の一節にある「ただ春の夜の夢の如し」や芭蕉の辞世の句とも言われている「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」など、いわゆる寝ているときに見る夢が一つ。他には豊臣秀吉辞世の一首と伝えられる、「露と落ち露と消えにしわが身かななにはのことも夢のまた夢」のように、とても叶わない非現実的な願いの意味で使われていたようです。今日のような将来叶えようとする願望の意味での「夢」が使われ始めたのは“dream”という英語が入ってきた明治以降ではないかと思います。
それでは江戸時代までの人々には将来叶えたい願望という意味での「夢」に当たる言葉はなかったのでしょうか。いえいえ、ありました。「志」という言葉がそれです。これは「夢」と同義でしょうか。いいえ、私は違うと思うのです。「志」という言葉には常にその大前提に「社会」、「世の中」、「他の人々」があります。その他者のために何をするかに応える形で自分が何をすべきか、どう生きるべきかがあったように思います。他者の存在があって、その幸せのために自分ができることは何かが考えられているのです。いわゆる今言われている「夢」とはこの点で決定的に異なるように思います。「夢」はまず自分がどうありたいかが優先しますが、「志」はまず優先するのが「誰かのために」なのです。どちらもそれぞれ意味のあることだと思います。ただ本当に自分の「夢」を実現するためには実はこの「誰かのため」がどうしても必要になってくるのです。人間は一人で生きていけないのは言うまでもないことです。どんな自分になるか、どんな生き方をするかは常に周りの人々や社会との関わりの中でしか語ることはできません。またその関わりの中では誰かに喜んで頂くことが最も自分を生かし切ることだと思うのです。自分が輝くためには輝いている自分を受け入れてくれるあるいはそれを喜んでくれる社会や他の人々無しではあり得ないことだからです。
「夢」や「志」にどんな意味を持たせるかはそれを用いる人々によって違って来ます。また「夢」や「志」を持たなくとも立派に生きている人々がいることも確かです。しかし、社会との関わりに全く関心を示さない若者達や家族の絆を全く感じない親子が増えている今日こそ、「夢」や「志」を語ることは大きな意味があるような気がします。自分が如何に生きるべきか、どうあるべきか、なんのために勉強するのかを考えるとき、社会や周りの人々に如何に役に立っていくかを踏まえない限り最終目標に到達することはとても困難であることを強く感じています。その意味では「志」こそがいまの社会が最も必要としてるものではないでしょうか。
(代表 林 政夫)