先日外部から中高一貫の私立に通っているという中3生が母親と一緒にやってきました。
明らかに本人が進んでやって来たというのではなく、いやいやながら母親に連れてこられたという感じでした。このケースの場合初めからこちらの目を見て挨拶をすることはまずありません。多くの場合母親に「さあ、挨拶しなさい」といわれてしょうがなく挨拶をするという形になります。

その日もそうでした。お母さんとお話していると(決して本人とではない)多くの場合母親は息子のうまく出来ていない勉強や生活習慣の問題点をあげていきます。何でこんなにやらないのかほとほと困っているとこぼします。こんなに困っているという表現をすることによっ
て、私はこういうのとは正反対の性格なんですよね、私ならきちっとやるんですがね、ということを言タトにおっしやいます。確かにこの場合、お母さんは一つ一つの作業をテキパキと、きちっと仕上げていくタイプであることがとても多いのです。仕事についていらっしゃるお母さんも多くいらっしやいます。きっと子供が幼稚園生のときは、とても素敵なお母さんだったと思います。仕事をテキパキこなし、子供の躾はしっかりやって、ご自身も忙しい中仕事と家事・育児を一生懸命やっていらしたことと思います。 ただ一般的にこのテキパキお母さんが陥りやすい問題点はこの育児法を子供が成長してからも、かつこれまで以上にエスカレートしてやってしまうことです。ところが子供が小学校中高学年になってきたら、この育児法はもう通用しなくなります。この辺りからお母さんの悩みは深刻になります。子供に言えばいうほど子供の心に届かなくなるようになります。こう有るべきなのにどうしてあなたはそれが分からないの、どうしてそれが出来ないの、ということになります。でもこれは勘違いです。

多くの場合仕事をなさっているお母さんは会社感覚で物事を考えてしまいがちです。会社は効率的に利益を上げるという成果を目指します。皆同じ方向を見ています。進む方向が決まっている以上その行動基準はおのずから決まっていきます。上司は部下にそのための正しい、あるべき行動基準を示せばいいのです。そう、その論法をお母さんは家庭でやっていないでしょうか。「こう有るべき」「こうすべき」「あなたのために、こうしているのよ」・・・

でも会社の論理は家庭では通用しません。家庭で通用するのは一人ひとりの子供に対する「愛情」です。それぞれの個性が違い、目指す方向が違い、達成の仕方が違い、場合によってはやる気にならない場合があってもいいからです。極端な場合子供はお母さんの言うことを聞かなくても痛痒を感じずに生きていけるからです。また、どちらかというとテキパキお母さんは周りからの評価をとても気にしがちです。同じ職場でのんびり事を運んでいる人を見ると、少しいらだちます。そんな自分が日ごろあまり好きになれないタイプの人とわが子が似ている場合と殊更に苛立ちます。自分の子供が判断されることがそのまま自分の評価になることを恐れるのです。時にはそのことを避けるために、塾などに来てわが子をけなす(謙遜するのとは違う)場合まで出てきます。

テキパキお母さんに育てられた子供達の一般的な状態はどうかというと、まず集中力に欠ける。いつも注意されているために自己防衛的になるべく人の話を流して聞く癖がついてしまう。自分の意見がなかなかが言えない。いつも自分が言う前にお母さんが言ってしまうから。ようやく言う段になっても周りの目を気にして小声で言うことになる。

お母さん、はたして子供たちはこういう生き方を望んでいるのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。もっともっとエネルギーに満ちた思いをぶつけたいと思っているのです。そう、お母さん。子供はまったく別の人格であること。存在するだけで本当にありがたいもの。本当の子育ては効率を求める「言葉」や「理屈」ではなく、親の生き方そのもの(毎日の生活の仕方)で示さなければならないこと。そんなことを再度確認してみませんか。子供たちはいつでもたくさんの可能性を持ってもっと活き活きと笑顔で生きようとしています。