「学ぶとは」(2013年4月24日発行)
先日教育制度がどうあるべきかについて7人の方々と私的なお話をする機会がありました。40年以上も教育に携わってきた方を中心に、元学校教師で現在公立学校の先生を指導している方や、元文部科学省の方、経済界の方など多方面の方々がこの話合いに参加しています。その中で教育によって子どもたちにどんな力を付けるべきなのかという議論になりました。これはとても難しい問題で様々な議論のあるところです。小中学校のカリキュラム作成に関わった元文部科学省の役人だった方は次のようにおっしゃいました。「これからの教育は内容ではなく能力を育てなければならない」と。つまり通信簿で言えば5段階評価の54321という評定ではなく、意欲関心などのいわゆる観点別評価といわれるものを大事にしていかなければならないとおっしゃるわけです。このことはもちろんとても大切なことです。ただ子どもを育て・教えるということはこの9教科の観点からのみ判断されるものでないはずです。素直さ、優しさ、我慢強さ、明るさ、前向きの姿勢、人と共感する力、など教科教育の中で計りきれない資質こそが大切であるはず。今の学校教育は人間教育といいながら教科教育に留まっている現状があります。
戦後の荒廃の中から立ち上がってきた日本人が物質的な豊かさを手に入れた反面、その見返りとして心の豊かさが失われつつあると言われています。今こそ学校教育に求められているものは人間教育に他ならないはずです。むしろこの人間教育こそこれまで日本を支えてきたものではなかったのかと。9教科の枠にとらわれず、というより9教科を利用しつつ人間教育を主として行わなければならないと思うのです。家庭や地域での教育力の低下が指摘されている現在、学校教育の役割は大きくなってきています。
実は10年前の本欄に「学ぶとは何か」について書いたことがあります。ここにその一部を再度掲載します。「終戦時の玉音放送の原稿に手を加えたといわれる安岡正篤氏は、人間の本質的要素は『徳性』にあるといいます。『知性、知能および技能』と『習慣』は人間の付属的要素であると。人間は知能や技能の働きによって文明・文化を創り上げてきたが、これがあるからその人が偉いかというと決してそんなことはない。人が人を愛するとか、報いるとか、助けるとか、廉潔であるとか、勤勉であるとかいうような徳があって初めて人間たりうる。又その徳性があって初めて知能も技能も活きるのであると。学問の本義は自反尽己、人間そのもの、徳性を養う事にある。しかしそれには平生に於いて良い習慣をつけるということが大事であって、刹那的では、そんな能力・才能も確かな効果を上げることは出来ない。俗に言う年季を入れなければ到底立派なものにはならない。よい習慣を積まなければならない。まさに学問とは自分を変えることである。本当の自分を知ること。本当の自分を作ることであると。」
学問の本義は徳性を養うこと。9教科はその徳性を養うための一つの手段でもあります。もちろん9教科の学力を付けることはとても大事なことです。ただそれを身につけることは勉強であってそれ自体は学問ではないのです。勉強を通して学問を学んでいくのです。たとえば「自反尽己」の「自反」とは、つい人に向けてしまいがちな指を、しっかりと自分自身に向けなおすこと、そして全てを自己責任と捉え、「尽己」与えられたその場を正念場として最善を尽すことです。自分の勉強の不出来を学校の先生や誰かの所為にするのではなく、すべて自分の問題ととらえて考えることです。そして自分の勉強の仕方のどこが悪いのか、どうすれば力が付くのかを真剣に考えることです。まさにこれが自反尽己です。そのような勉強に対する心構え、態度を養うことが大切なのです。
作家の故司馬遼太郎さんは「学問とは態度である」とおっしゃいました。この考えも安岡さんと共通していると思います。明治維新を終えたばかりのまだちょんまげを結った武士たちが西洋諸国を回ったことがありました。いわゆる岩倉使節団です。西洋文明からは遙かに後れをとっているにもかかわらず、西洋人の目にはその武士たちの気品と意欲の旺盛さに大きな驚きとして映ったのでした。まさに学問をしてきた人々の振るまいがそこに現れています。
私たちが育てなければならないのは知識や学力もさることながらそれらを通じて学問を学ばせることではないでしょうか。世に様々な塾がありますが少なくとも青藍学院はそんな学問を教える塾でありたいと思っています。
(代表 林 政夫)